「大民営化時代」にも通用する
反合理化闘争の創造的発展へ

 

写真集 1973〜76年 船橋闘争

 

(1)はじめに 
 小泉の一大民営化攻撃との対決は、労働者階級の正面課題である。JR尼崎事故は、国鉄分割・民営化の必然的な結果だ。これに対し反合・運転保安闘争を貫く動労千葉は、民営化に最先頭で立ちはだかっている。
今日の首切り・リストラ・民営化攻撃の先駆けとなった国鉄分割・民営化も、国鉄労働運動・そして総評の壊滅を狙う一大攻撃だった。そのファシスト的先兵となったのが旧動労(JR総連)カクマル松崎一派だ。 国鉄分割・民営化体制=JR体制は、こうした労働運動破壊攻撃の上に成立した。だが、動労千葉は国鉄分割・民営化の過程で唯一ストライキに立ち上がり、団結と闘いを守りぬいた。それは、動労千葉が反合・運転保安闘争を営々と貫いてきたからこそ可能となった闘いだった。
  今、動労千葉の闘いとその路線は、今全世界から注目を浴びている。民営化攻撃と闘う米国最強のILWUローカル10が、韓国民主労総最大組織であるソウル本部が、なぜ動労千葉との連帯を選択しているのか。韓国では「日本の労働運動は死んでいる」といわれていたなかで、11/13民主労総全国労働者大会の前夜祭で、日本の「闘う労働組合」として動労千葉訪韓団が紹介され、田中委員長の決意表明が圧倒的拍手で迎えらた。すでに民主労総との関係があった全労協系の労働組合やJR総連も参加しているなかで、500名足らずの小さな組合である動労千葉が、なぜ日本を代表して登壇できたのか。
 動労千葉が国鉄・分割民営化に唯一ストライキで闘い、40人の解雇をはじめとするすさまじい組織破壊攻撃にも打ち勝ち、世界的に吹き荒れる「新自由主義」―民営化・規制緩和の攻撃に真っ向から立ち向かっている労働組合であることが国際的に評価されているからではないのか。
 動労千葉は、05年10月2、3日の第34回定期大会で「大民営化時代に通用する反合・運転保安闘争の創造」という方針を打ち出した。それは、「闘いなくして安全なし」に示される反合・運転保安闘争路線が、JR体制を打倒する路線であるとともに、今日の大民営化攻撃と唯一対決できる路線であり、全産別の労働者の結集軸となり得る路線だからだ。
  今論文は、動労千葉の原点である反合運転保安闘争路線を形成した船橋闘争から、05年の尼崎事故に対する安全運転行動までの動労千葉の闘いを今一度学ぶことを通して、大民営化時代に通用する反合理化闘争論の創造のための一助となることを目的にしたものである。

(2)船橋事故と反合・運転保安闘争論の確立

  @国鉄労働運動と反合理化


三池、三河島、鶴見

 「闘いなくして安全なし」ーーーこれが動労千葉の反合・運転保安闘争のスローガンであるが、もともと炭労のスローガンであった。たび重なる落盤や炭塵(たんじん)爆発などで多くの労働者の命を奪われ続けた炭鉱労働者は、「抵抗なくして安全なし、安全なくして労働なし」のスローガンを掲げて闘いに立ち上がり、安全が確認されるまでは坑に降りないという労資協定をかちとった。
 しかし、総資本対総労働と言われた戦後最大の争議=1960年の三池争議に敗北し、炭労の団結が崩された結果、その3年後に三池の三川鉱で大炭塵爆発が発生し、500人もの労働者が一瞬にして命を奪われたのだ。

 「闘いなくして安全なし」は、まさに労働者の命をかけたスローガンであり、労働運動の解体か再生かをかけたスローガンなのである。
 戦後の国鉄労働運動は、1962年の三河島事故、63年の鶴見事故をきっかけに労働組合の戦闘的再生が始まった。160人もの命を奪った三河島事故の後、国鉄当局は、労資で「事故防止対策委員会」を設置する方針を打ち出した。世間に対し、安全確立に向けて取り組むかのような姿勢を示すことで、その場をのりきろうとした。国労、動労本部はこの提案を受け入れ、協定を締結した。しかし、「当局とテーブルを囲んで話し合うことで安全が確保されることなどあり得ない」という現場の怒りの声は強く、直後の動労全国大会では反対意見が続出し、本部が結んだ協定は承認を拒否され、執行部は総辞職した。ここから動労の戦闘的闘いは開始された。

機関助士廃止とマル生

 67年に提案された五万人合理化攻撃とのたたかい=機関助士廃止反対闘争は、国労、動労を通して、60年代後半の最大規模の闘争に発展していった。動力車職場では、助士廃止・機関士一人乗務が最大の焦点であったが、この攻撃は、当時の動労組織の2割、1万を占めた機関助士が職場を失うという組織の根幹にかかわる問題だったのである。これに、相次ぐ合理化・輸送力増強がのしかかり、職場の不満の声は高まった。同年、新宿駅で起きた米軍ジェット燃料タンク車の衝突・炎上事故等が重なり、運転保安の無視に対する怒りがたかまる。
 しかし、5万人反合闘争、機関助士廃止反対闘争は敗北する。この敗北をめぐって動労運動は路線的には壁にぶちあたった。またその当時の労働運動は反合理化闘争をいかに闘うかが最大のテーマであった。
 他方で、マル生(生産性向上運動)粉砕闘争は、70年安保・沖縄闘争の高揚の中で、青年労働者を先頭とする闘いで勝利する。しかし、マル生闘争の歴史的勝利にもかかわらず、国鉄労働運動はその後急速に展望を見失っていく。72年オイルショックから74〜5年不況としてあらわれた戦後高度経済成長の終焉、資本主義の危機が基底にあった。ここには右肩あがりの経済成長を前提に成り立ってきた総評労働運動そのものの限界があった。不況下での労働運動をどう進めていくのかという壁にぶつかったのだ。

上尾暴動 スト権スト 
 当時の動労は、七三年三月のいわゆる上尾暴動以降、順法闘争を一挙に終息させてしまう状況であった。また革マルの影響力が強まっていた動労東京地本は、上尾事件を「権力のどす黒い謀略」と主張して路線転換を正当化していった。(革マルの謀略論はここから始まった)そして反合闘争から完全召還し、78年貨物安定宣言に行き着いた。
 他方、国鉄当局はマル生以降、「労使正常化」の名のもとに国労・動労指導部のからめとり工作を強め、両者の癒着と腐敗が進んでいった。こうして、官公労の8日間にわたるストライキとして打ちぬかれた七五年のスト権ストの敗北以降、革マル、民同、協会派、日共などが展望を完全に喪失し、そして動労革マルは国鉄分割・民営化推進へと裏切りの道をつっぱしっていった。
 しかし、この流れに抗して動労千葉は、独白の路線と新体制を確立し、新たな闘いを開始した。それが、72年の船橋事故闘争を契機として確立した「反合理化・運転保安確立闘争」の路線と、1973年の関川−中野新体制であるである。

A船橋闘争の勝利
高石運転士逮捕

 72年3月28日午前7時過ぎ、総武線船橋駅において、上りホームに停車していた電車に後続電車が追突し、死者こそ出なかったが乗客600人が負傷する大事故が発生した。これがいわゆる船橋事故である。この事故発生直後、国鉄当局は追突した電車の高石運転士(津田沼支部所属)を一方的に船橋職員集会所に連れ去り、高石運転士に事故責任をおしつけ、供述を強制し、その上で警察に引き渡したのである。警察は、逮捕令状のないまま高石運転士を長時間にわたって身柄拘束した。
 そして、マスコミは、「たるみ→ミス→運転士の責任」という大キャンペーンを繰り返し、一切の事故の責任を乗務員に転稼しようとしてきたのである。
 これに対して、青年部を先頭に、「みんな勤務が終わったら船橋署に駆けつけろ」といって連日、何百人もの組合員が船橋署を包囲して、ついに5日目で釈放させた。国鉄当局は、高石運転士が釈放されるや、自宅に押しかけ、昼夜を問わず張り込み、挙句のはてに旅館に連れ込み事故の責任を強引に認めさせようと、恫喝と執拗なまでの責任のなすりつけの策謀を連日行なってきた。
 これに対して、千葉地本の現場の全組合員は、「この事故は乗務員の責任ではない。責任を乗務員に全部押しつけることは許さない!」「第2第3の高石君を出すな!」を合い言葉に、国鉄当局に対する怒りを爆発させ、猛然と闘いを開始した。
 そして同年4月3日、4日、怒りに燃えた組合員は強力順法闘争に決起した。 

事故原因は
 闘いの開始と同時に、船橋事故の直接的原因が明らかになってきた。
@送電線の断線によって信号停電。蕨変電所の送電線が、1929年に架設されて以来、電気保守関係の合理化によって一度も張り替えられず四〇年間「放置」され、疲労と腐触によって断線したものであった。
A異常事態に際しての「ATSの取扱い』(注1)が、一切教育訓練されていなかった。
B総武緩行線の二分半間隔の超過密ダイヤを維持するために、「列車自動停止装置」というATSの本来の「安全対策」としての機能を停止させ、見込み運転を強要する指導が日常的に行なわれていた。
Bさらに、船橋駅ホームの中程に過密ダイヤの通勤路線に、更に列車を多く走らせるために設けられた信号機である0号信号機を設置し、「輸送力増強」をはかり、運転保安無視と労働強化を乗務員に押しつけてきていたるのである。
まさに、輸送力アップ、無理な過密ダイヤ、運転保安無視と労働強化の国鉄の合理化が事故の根本原因をつくりだしたのだ。

刑事休職処分を粉砕
 事故発生から約半年後の9月20日、千葉地検は、「事故の責任は高石君の不注意であり、四本の信号機を見すごした」と事故責任の一切を運転士に転嫁し、不当起訴を行った。
 1300組合員の怒りは一挙に爆発し、「抗議闘争を直ちに実施せよ」「千葉のみではなく全国闘争として闘うべき」等の要求を地本と動労本部につきつけた。しかし動労本部は、「事故問題は、純粋労働運動でない」「業務上の問題であって労働者は闘いに起ちあがらない」等という動労革マルの敵対もあり、最終的に「千葉地本のみの闘い」の特認闘争として九月二五日から三日間の順法闘争が設定され、全組合員が全力で決起していった。
 一方、千葉鉄局長は24日記者会見を行い、「今回の闘争は、反戦系五十名とそれに追従する100名の闘いであり、たいした影響はない」等と発言を行ない、組合員の怒りと闘いの火に油をそそいだ。その結果、順法闘争初日の25日、総武線は運休100本余りをつくりだし、夕刻の千葉鉄管理局前抗議集会に全支部から500名の組合員が結集した。 翌日、当局は組合員を監視・威嚇するために3人1組になって添乗してきた。組合員は地本指令以上の遅れを出すことで反撃した。なんと運休150本、総武国電区間はもとより房総半島全線が無ダイヤ状態になり、夕方ラッシュの18時台に1本しか電車が動かないという事態を生み出した。順法闘争では異例な、乗客の京成電鉄への振り替え輸送もやむなしという事態をつり出した。
 この現場の怒りの激しさに驚愕した当局は、千葉鉄局長自からが千葉地本に「中止してほしい」と泣きを入れ、「業務上事故による起訴、それによる刑事休職発令」を阻止したのである。
 この闘いは、「業務上の事故問題は闘えない」という「常識」を完全に打ち破った。

0零号信号機撤去の闘い
スト権スト敗北の翌年の76年、動労千葉は、春闘ストにさきがけて、船橋事故の原因である「0号信号機撤去」を目指し強力順法闘争に突入した。「撤去すると2分半間隔のダイヤを確保できない」と主張する千葉鉄管理局を押し込み、ついに船橋駅の0号信号機を撤去させる画期的成果を上げた。
 0号信号機をめぐる論議は船橋事故公判闘争における技術論争(事故の原因)の焦点としても、反合・運転保安闘争における過密ダイヤの解消を実現するためのキーポイントとしての意味からも、労使としてともに譲れない問題として存在していた。72年3月船橋事故以来、動労千葉は合理化による運転保安の劣悪化とその改善を求めてねばり強く闘ってきた。そしてついに合理化の極地である2分30秒の間隔で電車を走らすという過密運転を突き崩し、そして事実上国鉄当局に、「船橋事故の直接的原因は0号信号機」という事実を、地裁判決前に認めさせたのである。

有罪判決、しかし原職復帰勝ち取る
 しかし千葉地裁は、76年4月1日、高石運転士に対して「禁固3年、執行猶予3年」という反動判決を行った。 動労千葉は、直ちに反動判決に抗議し、高石運転士の現職復帰を目標に4・14半日ストライキを決定し、スト総決起集会では組合員650名、県労連150名、総勢800名が結集した。
 スト突入の直前の13日深夜、当局は今までの頑な態度を一変させ、高石運転士の復職を約束させ、77年に高石さんの職場完全復帰を実現させたのである。

画期的な「運転保安確立闘争」の論理
  従来、鉄道事故が起きると、「監督指導上の問題」として取り扱われ、運転士に一切の責任を押しつけ、「乗務員のたるみ、不注意」などといって労務管理の強化に走る。そして見せしめに処分し恫喝する。さらに一気に合理化攻撃をかけてくるというものだった。
 しかし、船橋事故の場合は全く逆転した。逆に当局を徹底的に追及している。船橋闘争は、鉄道事故の原因は、合理化政策に一切の責任がある、運転士にその責任を転嫁するのは許さない、という労働者側の論理=「運転保安確立」闘争の論理を確立してたたかった。
たしかに、三河島事故以来、動労運動には運転保安闘争という闘いはあった。しかし当時の考え方は事故の責任は運転士にあるという前提のもと、「保安設備にも原因がある」のだから「情状酌量」にすべきと当局と「合同弁護団」をつくり、そして、その一方で「保安設備の改善」を要求するという条件闘争という一線をでなかった。
 しかし、船橋闘争では、裁判では禁固刑の執行猶予の判決で負けたが、事故を起こした運転士の復職を獲得し運転士に戻すという画期的勝利を勝ち取った。

B「合理化により奪われた労働条件を奪い返す闘い」
 船橋闘争の過程は同時に、職場では「反合・運転保安闘争」が激しく闘い抜かれていた。74年3月には、全国でもはじめての『列車の最高速度規制』(全線区10q/h減速)を勝ち取り、さらに、「9月北総電化と対決する反合運転保安闘争」では、運転時分=ダイヤの設定を組合側がタッチする、つまり運行管理権の一部を労働組合が握るというかつてない成果を勝ち取った。 さらに翌年75年の3月ダイ改でも、特急列車の2人乗務を勝ち取り、電化による要員合理化を阻止した。
 この闘いは、その後、75年以降の「線路改善闘争」に引き継がれる。 資本・国鉄当局の合理化はまず保守部門から始まる。当時、千葉でレールが非常に劣悪化し列車が激しく振動するので、乗務員分科会が自分の足で各線区を歩いて線路の状態を調べ、そのデータを団体交渉の席に持ち込んだ。これにまともに対応しない当局に対して、安全運転闘争=最高速度規制闘争を対置した。線路の悪化は、線路の補修を合理化して、列車のスピードアップを行った結果である。
 最高速度規制闘争は、管内でだいたい1日2000分から3000分、1列車に換算するとせいぜい5分くらいの遅れを出すものだった。これを毎日積み重ねて、それをダイヤに組み入れさせた。例えば千葉から津田沼まで20分だとしたら、25分のダイヤをつくらせた。文字どおりのダイヤ改正を実現したのだ。それまでは「ダイヤ改正」のたびに労働強化が行われ労働条件は悪くなった。しかし、この時には、「ダイヤ改正」をやることによって労働条件がよくなっり、なによりも要員増を勝ち取った。この当時から「千葉の労働条件は一番良い」と言われた。
 さらに国鉄当局は76年から4カ年計画でをかけた千葉管内の線路の抜本的改善計画(90億円)を発表し、老朽化したレールの大々的交換が始まった。
 「合理化によって奪われた労働条件を奪い返す、防衛から攻撃の反合・運転保安闘争」を実現、「闘いなくして安全なし」を文字通り実証した。今日の安全運転闘争の原型である。

C強固な団結を築いた反合・運転保安闘争

 事故問題は、現場の運転士にとって切実な問題だった。事故を起こした一人の組合員を守るために、全組合員が処分を覚悟して闘いにたちあがった。さらに組合員は自分自身の課題だと思って闘っているから組合も強くなる。団結は強まり、「動労千葉はオレたちの組合だ」という感覚にまでなっていく。つまり、反合・運転保安闘争によって、「一人は万人のために、万人は一人のために」という原点が、全組合員のものとなったのだ。
 そして、三里塚・ジェット闘争、動労本部からの分離独立闘争、そして国鉄分割・民営化反対闘争と、動労千葉のすべての闘いは、反合・運転保安闘争によって形づくられた団結力が土台にあったからこそ実現できたと言っても過言ではない。
 また動労千葉にとって、あらゆる闘いがある意味で反合・運転保安闘争と一体の闘いだった。「危険なジェット燃料貨車輸送反対」を掲げた三里塚・ジェット闘争、そして国鉄分割・民営化反対闘争も「国鉄を第二の日航にするな」のスローガンを掲げて首をかけてストライキに起ちあがったことにも明らかなとおり、ある側面では運転保安闘争だった。

(3)JR体制下での反合・運転保安闘争

  東中野事故弾劾闘争
分割民営化の闘いで40人以上が解雇され、百名以上の活動家が運転職場から駅などに強制配転された。しかし、JR体制に突入して以降も、動労千葉は反合・運転保安闘争を貫いてきた。
 88年12月5日、東中野駅で衝突事故が起き、運転士と乗客計2人が死亡した。「ダイヤ改正」で千葉―三鷹間を3分40秒短縮した4日後のことだった。尼崎事故と同様、むちゃな回復運転の強要が事故を招いた。動労千葉は1年後の89年12月、JR体制下で初の本線運転士のストライキに立った。その闘いにより、翌年のダイヤ改正では列車の運転時分を元に戻させた。

 外注化との闘い

2001年にスタートしたJR東日本の「ニューフロンティア21」、JR貨物の「ニューチャレンジ21」を、動労千葉は「第2の分割・民営化攻撃」と位置づけて闘ってきた。これまでの労働条件や賃金、雇用のあり方などをすべてつぶして全面的な外注化を強行する、極限的な大合理化攻撃だった。そしてこの攻撃は「シニア制度」導入と一体のものだった。シニア制度とは、年金制度の改悪を悪用して、定年退職した技術を持った労働者を外注会社に低賃金で採用する。しかし所属組合が外注化を認め合理化推進条項を含む「シニア協定」を締結しなければ、再就職試験も受けさせないという、会社とJR総連カクマルが結託した卑劣な攻撃だ。しかし動労千葉は「シニア協定」締結を断固拒否した、全面外注化粉砕へ敢然と立ち上がったのだ。
 動労千葉は「こんな大合理化攻撃は、必ず安全の根本的な解体に行き着く」と警鐘を乱打し、01春闘では計120時間の外注化阻止の大ストライキに立ち上がり、それ以降毎年、春闘ストライキを闘ってきた。
 ストを闘うと共に、外注化されようとしていた検修職場では、長期強靱(きょうじん)な抵抗闘争を行った。一つひとつの検修業務を規定どおりしっかり行う。すると勤務時間内には終わらない。その現実を当局に突きつけ、「要員が足りない。補充しろ」と激しく追及する。反合・運転保安闘争を徹底的に闘いぬいたのである。
 この5年間の闘いをとおして、JR東日本は、01年に保線・電力・信号通信などの設備部門と検修・構内の外注化を全域で実施したが、千葉支社だけは検修・構内の外注化を完全に断念させ、さらに激しい職場闘争で要員不足の現実を突きつけ、分割民営化以降、運転職場から駅などのに強制配転されていた組合員で、検修職場復帰を希望する14名全員の職場復帰を勝ち取るという画期的な勝利を切り開いた。

 (4)民営化の根幹を揺るがした反合・運転保安闘争

尼崎事故と動労千葉安全運転行動
 国鉄分割・民営化から18年目にして、その矛盾は一挙に噴出しのが、05年4月の尼崎事故である。107人の命を一瞬にして奪い去った尼崎事故は、弱肉強食の市場原理にすべてをゆだねるという民営化が労働者階級に何をもたらすのか衝撃的に突き出した、そして尼崎事故が突き出したのは、何よりも資本との闘いを放棄した労働組合幹部の裏切りだ。
 動労千葉のように、労働組合が階級的に団結して闘いを貫けば、安全を無視した資本の理不尽な命令・指示を労働者は敢然とはねのけることはできる。だが、国鉄分割・民営化に率先協力したJR連合やJR総連はもとより、上村革同支配下の国労西日本本部も、4党合意以降、資本の意思を国労組合員に強制する存在になり果てていた。これが、JRの極限的な合理化を促進し、強権的労務管理を勢いづかせ、事故への最後の引き金を引いたのだ。
 安全の崩壊は、JR西日本に限ったことではない。JR東日本でも、レールの破断が頻発し、レールの傷やきしみ割れは至る所で生じている。保守部門の全面外注化は、レールに損傷があってもまともに補修ができない状態を生み出しているのだ。
 こうした安全の危機に対し、動労千葉は、04年、05春闘を反合・運転保安確立春闘してストライキで闘い、そして尼崎事故から1カ月目の5月25日を期して、安全運転行動に立ち上がった。@無理な回復運転はしない、A制限速度を絶対に順守する、B運転中に危険と認めたときは必ず列車を止め、あるいは速度を落とす、C遅れは必ず報告する、D無線通告の受領は、必ず停車中に行う、E危険個所では減速するとい、安全確保のために運転士として当然なすべきことを行うということだ。
安全をめぐる攻防こそ、最も激烈な資本との戦場
 これに対してJR当局は、「会社の運行管理権を奪う違法争議」と激しい直ちに処分攻撃をかけてきた。さらに安全行動に起ち上がる組合員の運転台に2人の職制が乗り込み、監視と処分恫喝をくりかえした。。千葉支社ではたりず、東京支社、さらには本社からも職制を連日動員した。これに動員された職制はのべ数千人。その規模からみても、動労千葉の解体を目的としたものであっただ。
しかし重要なのことは、動労千葉の反合・運転保安闘争が、JRの「運行管理権を侵害する」というJR体制という民営化攻撃の根幹を揺るがし、またこの闘いが、民営化との闘いで画期的闘いであることを逆に証明したのだ。
 このJR東日本会社の総力を賭けた闘争破壊に対して、動労千葉は「解雇と安全問題は一歩も譲らない」と、さらに団結と闘争体制の強化し安全運転行動を堂々と貫いていく。

反民営化闘争としての安全運転行動にかつてない支持

そして動労千葉の闘いは、沿線の住民、乗客にかつてない大反響を巻き起こし激励や支援の電話・メールが続々と寄せられた。と同時にJRと国土交通省には抗議が殺到したという。
 これは、尼崎事故でJRの安全が多くの人びとの切実なテーマとなったがゆえの反響でもある。しかしそれだけではない。官民問わず激しい合理化攻撃が吹き荒れ、日本の労働者全体にとって民営化攻撃との対決が大テーマとなっている今だからこそ、反民営化闘争としての安全運転行動にかつてない支持が寄せられたのである。
 動労千葉の一歩も引かない闘い、そして沿線の住民・乗客、労働者から殺到する抗議の声に追いつめられたJR東日本千葉支社は、8月に入り、ついに全面降服を表明した。「05年度は保線予算を削減する」としていた方針を完全に撤回し、今年度中に総武快速・緩行線だけで140カ所、千葉支社管内全体では数百カ所、計22`に及ぶレールを交換することを確約したのである。その総経費は数十億円に上る。さらに動労千葉が9年前から要求してきた東浪見駅上り線のポイント(注2)に、ATS(「自動列車停止装置)を設置させた。動労千葉はこの大きな成果を踏まえ、100日間の安全運転闘争を9月1日をもっていったん集約し、2日から第2次安全運転行動に突入し現在に至っている。
 
(5)「反合理化闘争」論の更なる進化を

@ 動労千葉の「反合理化闘争」論のポイント
動労千葉の反合理化・運転保安闘争路線=反合理化闘争論は、今日の民営化ー規制緩和攻撃と唯一対決できる反合理化闘争論である。そしてそれは、民営化攻撃とたたかう全産別の労働者の反民営化闘争論として創造し発展させなくてはならない。
以上の観点から、そのために、動労千葉の反合理化・運転保安闘争路線に貫かれているいくつかの2つの重要な重要なポイントを整理してみたい。

《 合理化絶対反対の立場を貫く》
動労千葉は、国鉄の合理化攻撃、そして国鉄分割民営化攻撃、そしてJRの外注化攻撃と、資本のあらゆる合理化に対しては絶対反対を貫いて闘ってきた。また動労千葉が、「事故の責任を労働者に転嫁することは絶対に許さない」「一切の原因と責任は合理化と推し進める資本にある」と断言するところに、「合理化絶対反対」の立場が貫かれていからだ。
 国鉄分割民営化以降、現在、日本の労働組合運動から、「合理化反対闘争」がどんどん消えてなくなり、「合理化反対」のスローガンをさえもなくなっている。05年3月期の決算で、上場企業が史上空前の利益を上げているのは、そうした資本の大合理化の結果であり、労働組合が反合理化闘争を放棄し、合理化攻撃を許している結果である。 労働組合が資本の合理化=民営化を容認すると言うことは、「労働組合の死」を意味するのだ。

 《 敵の矛盾・弱点をつく、「攻めの反合闘争」》
 動労千葉の反合闘争の最大の特徴は、かつての革マルや協会派などの空語的な「合理化絶対反対」ではなく、個々の具体的課題に対し敵の矛盾・弱点をつき、「攻めの反合闘争」として闘い抜かれていることだ。そして現場労働者の怒りを引き出し、それに徹底的に依拠し、日常的な職場闘争として現場段階ではね返す闘いとして闘われた。
 戦後日本の労働運動の歴史を見ると、反合理化闘争は、誰もが労働組合にとって最も基本的な課題であると言いながら、有効な闘いが組織され、合理化を具体的に阻止し勝利することはほとんどなかった。「合理化を認めるから賃上げ、時短を」などと合理化提案に屈服していった。つまり合理化攻撃に対して労働組合は常に受け身でしかなく、分断され、合理化が貫徹されていく。その結果、労働者の中にも「結局、労働組合などその程度の存在でしかない」という思想が浸透してしまうということが繰り返された。
 一方、動労千葉の反合理化闘争は、鉄道事故問題、安全の問題を、単なる事故問題、「安全対策の不備」の問題としてではなく、合理化攻撃の矛盾の表われとして必然化するものとして見た。そして「資本の最大のアキレス腱(けん)・弱点は安全問題にある」ことを切り口とし、ここに徹底してこだわり抜くことによって、反合理化闘争の主導権を労働組合が握り返し、職場生産点から「攻めの反合闘争」として闘い、合理化によって奪われた労働条件を現実的に奪い返えす闘いを行ってきた。これは反合理化闘争の新たな地平を切り開く画期的闘いであり、闘争論だった。

 A反合理化闘争は、資本主義の否定の闘い
  《帝国主義の「まきかえし」運動》
「資本の合理化」とは、賃労働と資本の関係において、労働力の価値を際限なく縮小し、資本が利潤=剰余価値の増大を追求するためのあらゆる手段・方法であり、資本と労働者階級の絶えざる闘争と力関係に規定されつつ貫かれる。
 そして資本の合理化攻撃は、かつての「生産性向上運動」のように、国家の政策として、「合理化運動」として、労働者階級に対するイデオロギー攻撃と行われる。
「合理化」と言う言葉が歴史の舞台に登場したのは、1925年ドイツ工業全国同盟が、第一次帝国主義戦争で敗北し、「疲弊したドイツ経済を立て直すためには、労使一体となって合理化運動をすすめなければならない」と提唱したのが、「合理化」のはじまりである。つまり、帝国主義段階の独占企業における生産技術の飛躍的高度化に対応して、そしてなによりもロシア革命以降の帝国主義の体制的危機を乗り切るために、労働者の闘いと団結、労働組合を弱体化させ、資本の労働者支配を極限的に強めつつ、最大限の搾取を極限的労働強化と可能な限りの低賃金によって貫くための攻撃である。

 《反合理化=資本の労働者への侵害に対する抵抗であり、逆に資本への侵害として闘われる》

 したがって、反合理化闘争とは、資本の労働者への侵害に対する抵抗として、資本と直接的に激突し、逆に資本への侵害として闘われる。労働組合という基礎的団結形態が主体となり、その防衛と団結強化としてかちとられるのである。(まさに反合・運転保安闘争は、動労千葉の団結の原点であり、団結強化のかなめである。)
また、そうである以上、反合理化闘争は、労働者階級の究極的な解放=プロレタリア革命を目的として闘わざるを得ないのである。
 反合理化闘争がこのようなものであるからこそ、その実践は並大抵の闘いではない。諸党派はこの実践でことごとく破産している。動労千葉労働運動のように、階級的労働運動の立場に立つ以外には闘うことはできないからである。

最後に 
  動労千葉の反合運転保安闘争路線を普遍化し、反民営化の闘いへ
 現在の合理化攻撃は、帝国主義の破局的危機が深まる中では、全世界を覆う大民営化攻撃となって労働者階級に襲いかかっている。
 民営化攻撃とは、単なる「官から民へ」ではない。あらゆる公的部門を民営化し、社会の隅々まで資本の支配、すなわち市場原理=競争原理が野放しにされ、資本にとっては極限的な効率化=合理化を図る攻撃であり、労働組合解体の攻撃である。 そしてそれは、労働者人民に何をもたらしているのか。 JR尼崎事故、「建造物耐震偽造問題」、まさに労働者の生活と命を一瞬に奪い取っている。
 「民営化して小さな政府」とは、戦争のできる強力な国家にするという意味と、労働者人民を支配すれど、「公的な責任」はとらない、つまり労働者の生活と命について一切責任をとらない「無責任政府」といことだ。
 「建造物耐震偽造問題」は、ゼネコンをはじめとした建築業界の問題ではすまされない問題である。小泉ー奥田が進める民営化−規制緩和政策を根本からひっくり返し、資本主義体制をも揺るがしかねない一大社会問題となりつつある。そしてこの問題はJR尼崎事故と同じように、労働組合の問題であり、とりわけ自治体労働運動の問題でもある。
「安全問題」は民営化=合理化の最大の弱点である、その攻防こそは合理化=民営化と対決する切り口となる。しかしそれは、05年の動労千葉の安全運転闘争を見られるように、「資本主義の根幹に触れるもの」として資本や権力は激しく反応し、激烈な攻防となる。しかし、重要なことはこの闘いは、社会正義の闘いであり、労働者階級に最も深く根ざした闘いになり、勝利できる闘いなのだ。
 まさに、動労千葉の闘いを今一度学ぶとき、その反合・運転保安闘争の路線が、「反民営化闘争論」としてに非常に有効であり普遍的ものであり、一産別にとどまらず全産別の労働運動で求められる路線であり、戦争と民営化一労組破壊攻撃を打ち破る大きな力をもつ路線であることが明らかになるのだ。
  動労千葉労働運動を今一度学び、自らの職場に確立しよう。
(注1)【ATS】 Automatic Train Stopの頭文字、自動列車停止装置の略。JR線及び大手私鉄のほとんどに 設置されている。運転士が赤信号を見落としたりするなどして、列車が停止しなかった 場合に、警告音を発し5秒以内にブレーキをかけないと、自動的に緊急停止する装置。
(注2)線路の分岐点

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写真集 1973〜76年 船橋闘争